バッハ,J.S. Bach, J.S

■ヨハネ受難曲BWV.245
受難曲というのは,新約聖書の「福音書」のキリスト受難の物語に音楽を付けた曲です。形式的には,オラトリオ,カンタータなどと区別が付きにくいものとなっています。バッハは,「マタイ」と「ヨハネ」の2つの受難曲を作曲しています。両者ともにバッハの全作品を代表する曲です。日本では「マタイ」の方が人気があるようですが,欧米では「ヨハネ」の方が人気がある,という話を聞いたことがあります。いずれにしても,両者ともクラシック音楽の神髄といっても良い名作です。

この2曲の性格は,オリジナルのテキストである,両福音書の性格を反映しています。「ヨハネ福音書」をテキストにしている「ヨハネ受難曲」は(マタイ伝も一部含んでいますが),「マタイ」がキリストに関するいろいろなエピソードを沢山含んでいるのに対し,いきなりイエスの逮捕から始まります。ヨハネ福音書は,マタイ,ルカ,マルコの他の3つの福音書が共観福音書と呼ばれているのに対し,独自の観点から書かれています。そういう点からも対照的なテキストといえます。

曲の展開は,福音書の流れに沿っていますが,それだけではなく,コラールや自由詞からなる楽曲も交え,立体的に構成されています。この(1)福音書章句(2)コラール詞(3)自由詞という3つの要素から曲が作られているのは,バッハの受難曲の特徴となっています。

(1)の福音書章句の部分(下の表の)は,福音史家(エヴァンゲリストとも呼ばれます。テノールが担当)の語り,イエスの言葉(バスが担当),イエス以外の言葉(それぞれに相応しい聖域の独唱)から成っています。基本的にはレチタティーヴォで語られます。これは受難曲の伝統に従ったものです。

(2)のコラール詞(下の表の)は,物語の流れを中断する形で挿入されます。コラールは,バッハの作曲ではなく,プロテスタント・ルター派の教会で好んで歌われていた「祈りの歌」です。受難曲は,イエスという歴史上の人物の物語なのですが,コラールをはさむことで,聞き手の方は,「現代の問題」として祈りを捧げながら聞くことになります。

(3)の自由詞(下の表の)は,さらに音楽的に自由な曲です。アリアと呼ばれるオペラ的な曲も含んでいます。逆に言うと,こういう形式に対応するために,自由詞が必要だったとも言えます。

ヨハネ受難曲は,2部構成になっています。本来はその間に牧師の説教がされます。バッハ自身は,それ以上の区分はしていませんが,各部はさらにいくつかの場面に分けることができます。ここでは音楽之友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー12.J.S.バッハ」の記述に従って,場面を分けてあります。

第1部
種類 曲名・テキスト 編成 解説
合唱 主,われらを統べ治め 4部合唱。フルートI,II,オーボエI,II,弦,通奏低音 ●プロローグ
受難曲の最初と最後に自由詞による合唱が加えられているのは,マタイ受難曲と同様です。曲の最初から最後まで一定のリズムが続きます。オーボエとフルートがその上で悲しげな主題を演奏します。合唱は全能の神を迎えるように決然として始まります。途中でフーガ風になります。最後,合唱は「賛美された」と歌い上げます。
2a〜e レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝18-1〜8 福音史家,イエス,通奏低音
4部合唱,管弦楽
●裏切り
小川のほとりのイエスの捕縛の場です。誰を探しているのか?というイエスの問いに対し,「イエス,ナザレのイエスを」という民衆の合唱が応えます。この合唱は2度登場します。この後の曲でもレチタティーヴォの中の合唱は群衆を表わしています。
3 コラール おお,大いなる愛,おお,計り知れぬ愛 4部合唱,管弦楽 J.ヘールマン作のコラール"Herzliebster Jesu"の第7節,旋律はJ.クリューガー。この曲は「マタイ受難曲」でも最初のコラールとして登場します。何かの因縁でしょうか?
4 レチタティーヴォ ヨハネ伝18-9〜11 福音史家,通奏低音 ペテロが剣で大司祭の下僕マルコスを切りつける。
5 コラール 汝の御意の行なわれんことを,主なる神よ 4部合唱,管弦楽 M.ルター作のコラール"Vater unser im Himmelreich"の第4詩節。前曲での「父が私に下さった杯は飲むべきではないか」というイエスの言葉を受けての祈り。
6 レチタティーヴォ ヨハネ伝18-12〜14 福音史家,通奏低音 ●カヤパの前
イエスは捉えられ,大祭司カヤパの前に引っ立てられます。
7 アリア わが身にからみつくもろもろの罪の縛めより アルト,オーボエI・II,通奏低音 イエスの捕縛に対しての悲しみを表現した曲です。オーボエの音色がここでも哀愁を帯びています。
8 レチタティーヴォ ヨハネ伝18-15 福音史家,通奏低音 ペテロともう一人の弟子がイエスに従い行きます。
9 アリア われもまた汝に従い行かん ソプラノ,フルートI・II,通奏低音 第8曲に共感する信徒の心を表わす軽快なアリアです。フルートのオブリガートが印象的です。ただし,ここでイエスについて行くペテロという人物は,このアリアの直後「イエスを知らない」といってしらを切ることになるので,不自然だ,という説もあります。
10 レチタティーヴォ ヨハネ伝18-15〜23 福音史家,下女,ペテロ,下役,通奏低音 大祭司カヤパの前のイエスの場です。下女が「あなたもイエスの弟子の一人か?」とペテロに尋ねたのに対し,「違う」と答えます。下役がイエスに平手うちを食らわせた後,イエスは「もし私が何か悪いことを言ったのならその悪い理由を言いなさい。なぜ私を打つのか」と答えます。
11 コラール たれぞ汝をばかく打ちたるか 4部合唱,管弦楽 P.ゲールハルト作のコラール"O Welt, siek hier dein Leben"の第3,4詩節。前のレチタティーボを受けた効果的なコラールです。
12a〜c レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝18-24〜27,マタイ伝26-75 福音史家,ペテロ,下役,通奏低音
4部合唱,管弦楽
●ペテロの否認
ペテロの否認の場です。ペテロを詰問する群集の合唱が「お前はイエスの弟子か?」と問い掛けます。この問いは46回も繰り返されます。ペテロは違うと否認します。下役に問われても,否定します。その後,鶏が鳴きます。ペテロは,「鶏が鳴く前に3度否認するだろう」という,イエスの言葉を思い出して,外に出て泣きます。この部分は,マタイ伝を使っています。福音史家は語り手なのですが,「いたく泣けり」という部分は,テンポがアダージョに落とされ,長い半音階的なメリスマで切々と歌われます。
13 アリア ああ,わが念よ,いずこに汝は テノール,弦,通奏低音 前の曲の聖句を受けて「私はどこに行けばよいのか?」と短調で歌われます。付点音符が不安げな感じを盛り上げます。
14 コラール ペテロ,主の警めを思い返さず 4部合唱,管弦楽 P.シュトックマン作のコラール"Jesu Leiden Pein und Tod"の第10詩節,旋律はM.ヴルピウス作。このコラールの他の詩節も第28曲,第32曲で使われていますので,曲全体の中で重要な意味を持つことになります。

第2部
種類 曲名・テキスト 編成 解説
15 コラール われらを救いたもうキリストは 4部合唱,管弦楽 ●ピラトの審問
フリギア旋法。M.ヴァイセ作のコラール"Christus, der uns selig mach"の第1節。
16a〜e レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝18-26〜36 福音史家,イエス,ピラト,通奏低音
4部合唱,管弦楽
このピラトの審問の部分がヨハネ受難曲の中心をなすと言われています。ここでも群集の合唱が重要な役割を果たしています。

イエスに対してどういう訴えを起こすのか?というピラトの問いに対し,ユダヤ人の群集は「この人が悪事をはたらかなかったら,あなたに引き渡すことはしなかった」と憎悪を爆発させるように歌います。半音階的な動きが特徴的です。2回目の合唱では,さらにエキサイトしている様子を描いています。

最後にイエスは「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであれば,私に従っている者たちは,私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう」と「戦い」という言葉をメリスマで強調して歌います。
17 コラール ああ大いなる王よ,いかなる時にも大いなる汝の 4部合唱,管弦楽 .第3曲が移調されたものです。同じコラールの第8〜9節です。前曲の最後の部分の「戦い」という言葉に誘発されて歌われます。 
18a〜c レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝18-37〜40 福音史家,イエス,ピラト,通奏低音
4部合唱,管弦楽
「イエスでなしにバラバを釈放せよ」と群集が歌う場です。この合唱は,第2曲と同じものです。

その後,「ピラト,イエスを引き据えて,うちで打たせた」と福音史家が歌う部分は,メリスマを用いて「むち打たせた(geisselte)」という語を強調し,長く大げさに歌われます。
19 アリオーソ とくと見つめよ,わが魂よ バス,ヴィオラ・ダモーレI・IIまたはリュート[またはオルガンあるいはチェンバロ],通奏低音 バッハが通奏低音としてリュートを指定した数少ない曲です。弦楽器も弱音器を付けて演奏しているので,たそがれ時の静けさを思わせる,独特の雰囲気を持った曲となっています。 
20 アリア 心して思いはかれ,血に染みたる彼の背の テノール,ヴィオラ・ダモーレI・II,通奏低音 拷問にかけられるイエスを取り扱う曲です。曲全体に「むち打ち」のリズム音型が広まります。アーチ型のメロディ・ラインは歌詞に出てくる虹を思わせるところがあります。
21 レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝19-2〜12 福音史家,イエス,ピラト,通奏低音
4部合唱,管弦楽
群集の合唱が「ユダヤ人の王,万歳」とふざけるような調子で歌います。フルートとオーボエの急速に下降する音型もその雰囲気を伝えます。

その後,「十字架につけよ」の合唱になります。不協和音の響き,熱狂的な反復,「タン,タタ」という執拗なリズムの繰り返しなどから命令的な要求感が出てきます。

続く「私たちには律法があります」の合唱では,対照的に整然ととしたフーガとなり,いけにえを要求します。ピラトはイエスを放免することを望むのですが...。
22 コラール 汝の捕らわれしゆえに,神の御子よ 4部合唱,管弦楽 ポステルの受難詞に基づくもの。旋律はH.シャインの作。事件に満ちた場を閉じるこの曲は,全曲の中核を成す重要な曲と言われています。
23a〜g レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝19-12〜17 福音史家,ピラト,通奏低音
4部合唱,管弦楽
●磔刑
イエスがゴルゴダに連行される場です。この第23曲に含まれる3つの群集合唱(b,d,f)は第21f,d曲と第18b曲の合唱に対応しています。「十字架につけよ」と歌われます。
24 合唱付きアリア 急げや,悩めるたましいよ〜いずこへ? 3部合唱とバス,弦,通奏低音 「急げ」という歌詞どおり,速い音階的なメロディでゴルゴダに急ぐ様子を表現しています。通奏低音,管弦楽でもこのメロディを模倣しています。合唱が途中で「どこへ?」と絡んできます。
25a〜c レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝19-18〜22 福音史家,ピラト,通奏低音
4部合唱,管弦楽
磔刑の場を福音史家が語ります。「ナザレのイエス,ユダヤ人の王」の部分だけアダージョになります。続く合唱は,第21b曲と対応しています。
26 コラール わが心の奥底ひと知らざるところに 4部合唱,管弦楽 V.ヘルベルガー作のコラール"Valet will ich dir geben"の第3詩節,旋律はメルヒオール・テッシュナー作。死と永生のコラール。
27a〜c レチタティーヴォと合唱 ヨハネ伝19-23〜27 福音史家,イエス,通奏低音
4部合唱,管弦楽
イエスを十字架にかけた後,イエスの服を分ける場です。ここで出てくる合唱は,同音反復とシンコペーションのリズムが目立つ,独特の軽みを持った曲です。その後,イエスが母マリアと対面し,母をヨハネに委ねます。この辺はしみじみとした音楽が続きます。
28 コラール 彼はこの最期の時に臨みて 4部合唱,管弦楽 第14曲と同じコラールの第12詩節。イエスが最期の時にのぞんで,後見人を定めた,という曲です。
29 レチタティーヴォ ヨハネ伝19-27〜30 福音史家,イエス,通奏低音 ●最期
イエスが「われ渇く」と言って,すべてが終わります。
30 アリア こと果たされぬ! アルト,ヴィオラ・ダ・ガンバ,通奏低音 前の曲の場面を引き継ぐアリアです。ヴィオラ・ダ・ガンバの響きが悲しみをさらに深くします。中間部では急にヴィヴァーチェとなり,イエスの復活をほのめかします。
31 レチタティーヴォ ヨハネ伝19-30 福音史家,通奏低音 イエスが息を引き取ったことを語ります。
32 アリアとコラール わが尊き救いよ,わが問うを許したまえ〜イエスよ,汝ひとたび死にたれど バス,4部合唱,通奏低音 自由詞とコラールとがあわさった曲です。通奏低音がオスティナート風に同じ音型を繰り返します。キリストの死に続くアリアにしては明るい曲になっていますが,これはバスの問いがキリストによって肯定されるからです。コラールの方は,第14曲と同じコラールの第34詩節,旋律も第14曲と同じものです。
33 レチタティーヴォ マタイ伝27-51〜52 福音史家,通奏低音 地震と復活の場です。伴奏の方もなかなかダイナミックです。
34 アリオーソ わが心よ,いまや自然界こぞりて テノール,フルートI・II,オーボエ・ダ・カッチャI・II,弦,通奏低音 次の曲に続く,レチタティーヴォのような役割の曲です。威厳のある伴奏が付いています。
35 アリア 融けて流れよ,わが心よ,溢れくる涙の潮に ソプラノ,フルートI・II,オーボエ・ダ・カッチャI・II,通奏低音 ソプラノによる悲しいアリアです。フルートとオーボエ・ダ・カッチャが美しい伴奏を付けています。
36 レチタティーヴォ ヨハネ伝19-31〜34 福音史家,通奏低音 キリストを十字架から降ろす場について福音史家が語ります。
37 コラール おお,力を与えたまえ,キリスト,神の御子よ 4部合唱,管弦楽 第15曲と同じコラールの第8詩節,旋律も第15曲と同じ。リディア旋法。
38 レチタティーヴォ ヨハネ伝19-38〜42 福音史家,通奏低音 ●埋葬
キリストの埋葬について福音史家が語ります。
39 合唱 憩え,安らけく,聖なる御躯よ 第1曲と同じ編成 埋葬の場面を締めくくる埋葬歌。曲の印象深さや規模からいって,事実上の終曲といえます。「マタイ」の終曲との類似性もあります。
40 コラール ああ主よ,汝の御使いに命じ 4部合唱,管弦楽 M.シャリング作のコラール"Herzlich lieb hab' ich dich, O Herr"の第3詩節,旋律は作者不詳。

(参考文献)
J.S.バッハ(作曲家別名曲解説ライブラリー;12).音楽之友社,1993
(2003/02/15)