ベートーヴェン Beethoven

■荘厳ミサ曲ニ長調,op.123
学校の音楽室の定番といえば作曲家の肖像画です。そういう肖像画の中でもっとも印象なのが,楽譜を手にしてキッとこちらを見つめているベートーヴェンの肖像画です。このベートーヴェンが手にしているのが,この荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニスとも呼ばれます)の楽譜です。

この曲はベートーヴェンの晩年に書かれた大作で,ベートーヴェン自身,「私の最大の作品」と言っているとおりの大変聞きごたえのある名曲です。ミサ曲の中では,バッハのロ短調ミサ曲と並ぶ傑作です。曲は,第9交響曲と似た編成で書かれています。作品番号からしても第9の兄弟分といえます。

曲は,「キリエ」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」という伝統的なミサ曲通常文を構成する5つの部分から成っています。歌詩もラテン語で歌われますが,全体的には,純粋な宗教曲というよりは,演奏会的な雰囲気と教会的な雰囲気とをあわせ持ったスケールの大きさがあります。各楽章はかなり長く,初演も全曲ではなく一部だけが演奏されています。全曲が初演されたのは,意外なことにサンクトペテルブルクです。作品はベートーヴェンの生涯のパトロンだったルドルフ大公に献呈されています。

第1曲キリエの冒頭には「心より出,そして再び心にかえらん」と書いてありますが,ベートーヴェンの作曲技法のみならず,彼の理想や哲学の総決算ともいえる作品です。どことなくフランス革命やナポレオン戦争時代直後の啓蒙主義的な気分が漂うのもベートーヴェンらしいところです。

●第1曲 キリエ
アッサイ・ソステヌート「敬虔に」
ニ長調の和音が鳴った後,静かな前奏が続きます。合唱が「キーリエ」と歌い始めると主部が始まります。この曲は3部構成となっていますが,これは,キリエの歌詞に対応しています。テノール,ソプラノ,アルトの順に独唱が出てきます。中間部は,テンポも拍子も変わり,ロ短調になります。「キリスト,憐れみたまえ」と独唱が歌います。フーガのように展開された後,第1部が再現しますが,ここではより密度の高いものになっています。

●第2曲 グローリア
全体は4つの部分に分かれています。

第1部 アレグロ・ヴィヴァーチェ
オーケストラの強奏に続き,合唱アルトが「グローリア...」(いと高き天においては,神に栄光あれ)と高らかに輝かしく歌い始めます。ニ長調という輝かしい調性が生きています。続く,「地上には平安あれ」といった歌詞の部分になると,それに対応するかのように穏やかなメロディになります。この対比が聞き所です,後半はテノール独唱なども加わって盛り上がり,グローリアの主題も再現します。

第2部 ラルゲット
「世の罪をのぞきたもう御者,われらを憐れみたまえ」という部分です。ため息をつくように,重苦しい雰囲気になります。

第3部 アレグロ・マエストーソ
オーケストラの鋭い分散和音に続き,合唱テノールが「御身は,唯一の聖なる御者」という歌詞を強く歌います。

第4部 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・ベン・マルカート
大フーガです。合唱バスと低音楽器が「神なる御父の光栄において。アーメン」というフーガの主題をユニゾンで出します。非常に緊迫感のある展開が続き,「アーメン」という言葉に向かって,壮大なクライマックスを気づきます。最後にグローリアの主題が再現し,さらに高潮し,アーメン終止で楽章を閉じます。

●第3章 クレド
この楽章も4つの部分に分かれます。

第1部 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
合唱バスが「クレード,クレード」と力強く歌い始めます。その後,突如ppに静まり「世々の前に」とつぶやくように歌います。クレド主題による展開が続いた後,「彼は,われら人間のために,天から下りたもう」という内容を表すかのように跳躍のあるメロディが合唱で歌われます。

第2部 アダージョ。ドリア旋法的
合唱テノールが,「精霊によって,マリアより生まれ」と歌い,独唱に継がれていきます。精霊を表すようなフルートの音形など,この辺の描写はとても工夫されています。「十字架につけられ」という歌詞が出てくると,ニ短調のアダージョ・エスプレッシーヴォとなり,苦難に満ちたような雰囲気になります。「3日目によみがえり」という歌詞がア・カペラの合唱テノールに出てくると,気分が変わり,第3部に続きます。

第3部 アレグロ・モルト
「天に昇り」という歌詞を表すように跳躍のある上向の音階で始まります。ここでは最後の審判を表すトロンボーンの音も効果的です。キリストを賛美するような雰囲気が続いた後,クレド主題が再現します。合唱が「アーメン」という言葉でクライマックスを作った後,第4部に入ります。

第4部 アレグレット・マ・ノン・トロッポ
合唱ソプラノが主題,合唱テノールが対主題を静かに提示して,フーガが始まります。オーケストラは,合唱とユニゾンで進んでいきます。ここでも「アーメン」が出ると,テンポが変わり,展開していきます。テンポが遅くなり,独唱が「アーメン」と歌いうと,天上に消え入るような感じで楽章を閉じます。

●第4章 サンクトゥス アダージョ
「聖なるかな万軍の神なる主」という歌詞が独唱によって静かに唱えられます。突如,アレグロ・ペザンテに変わり,壮麗なフガートが展開されます。「ホザンナ,ホザンナ」という歌詞になってと,テンポはさらにプレストに上がります。

続いて,「ベネディクトゥス」に入りますが,その前に前奏曲が置かれています。非常に神秘的な音楽です。コンサート・マスターのヴァイオリン・ソロで高い音を弾き始めると,ベネディクトゥスになります。このヴァイオリンの音が2本のフルートとともに,3オクターブに渡って下降していきます。この後もソリスト並みに美しいメロディがオブリガートになって延々と続きます。

合唱バスが「ベネディクトゥス」と静かに歌いはじめます。続いて独唱アルトから他の声部へと受け継がれて行きます。途中,合唱が「ホザンナ」と力強く盛り上がりますが,全体に清澄な気分にあふれた楽章です。

●第5章 アニュス・デイ
全体は3部に分かれます。

第1部 アダージョ
「アーニュス,アニュス,デイ」と切々とした祈りが始まります。バス独唱のしみじみとした歌が大きな聞き所となります。続いて「ミゼレーレ」という言葉が出て来て,男声合唱〜アルトとテノールの二重唱が歌い継いで行きます。最後に四重唱と合唱によって「アニュス・デイ...」と繰り返されます。その後,曲が明るいムードに変わり,第2部に入っていきます。

第2部 アレグレット・ヴィヴァーチェ
暗さのどん底のような状態の後,曲のテンポが軽さを持った調子に転換します。この暗から明への転換はベートーヴェンらしいところです。ベートーヴェンは,ここで「内面と外面のこころの安らぎへの願い」と楽譜に書いています。

まず,合唱アルトとバスが「われらに平和を与えたまえ」と歌います。次に合唱ソプラノとバスによって2重フーガ主題が「pacem(平和)」という言葉のもとに展開されます。弦楽器によるピツィカートの上行旋律が平和への期待感を感じさせてくれます。

中間部はアレグロ・アッサイとなり,不穏な雰囲気になります。ティンパニの弱音の後,トランペットが出て来て行進曲風になります。独唱アルトとテノールが不安げにレチタティーヴォを歌います。その後,最初の部分に戻り,最初より充実した形で「われらに平和を...」と歌われます。

第3部 プレスト
トリルを伴う短い主題と第2部に出てきた2重フーガのソプラノの主題とが競うように出てきます。金管楽器とティンパニが終曲の開始を告げ,合唱が「アニュスデイ」と歌い,次に独唱者たちが「dona nobis pacem(我らに平和を与えたまえ)」と歌います。2重フーガのソプラノの主題を回想しながら,盛り上がって行きます。最後はティンパニが神秘的なリズムを打った後,合唱が「pacem」と歌って,全曲が感動的に結ばれます。

(参考)作曲家別名曲解説ライブラリー3.ベートーヴェン.音楽之友社,1992(2003/12/03)