シューベルト Schubert
■歌曲集「冬の旅」D.911,op.89
シューベルトの死の前年に作曲された24曲からなる歌曲集「冬の旅」は,彼の作品群の中でも異彩を放つ作品となっています。全編に漂う孤独感と暗鬱さはすべての歌曲の中でも独特の地位を占めるものです。

この曲集は,ヴィルヘルム・ミュラーの詩に曲がつけられています(ちなみにミューラーもこの年33歳の若さで亡くなっています)。このことはシューベルトのもう一つの連作歌曲集「美しい水車屋の娘」と同様です。含まれている曲数(「水車屋の娘」の方はやや少ないですが),演奏時間,主人公が若い青年である点にも共通点があります。が,その雰囲気は対照的です。「水車屋の娘」の方は全編が民謡風の明るさに包まれているのに対し,「冬の旅」の方は動きがもっと少なく,絶望感が強くなっています。また,「水車屋の娘」の方がストーリー展開があるのに対し,「冬の旅」の方は明瞭な筋はありません。「1番,2番...」という有節歌曲も比較的少ないのも特徴です。歌のメロディがより歌詞にぴったりと寄り添ったものになっているとも言えます。

曲全体としては,第1曲「おやすみ」に出てくる歩行のリズムが全曲を通じて,形を変えて現れてきます。聞き手は,主人公とともに心の旅を続け,最後の曲では大きな共感を持つことになるでしょう。

この曲は,通常,バス,バリトンで歌われることが多いのですが(テノールの場合も時々ありますが),近年はアルト歌手によって歌われることもあります。いろいろとイマジネーションを膨らませてくれる曲ということもあり,ピアノ伴奏ではなく,オーケストラ伴奏に編曲されることもあります。いずれにしても,低音の歌手ならば誰もが歌いたいと思う,歌曲史に残る大傑作です。

タイトル 調性・拍子・形式 内容
第1曲 おやすみ Gute Nacht ニ長調2/4拍子 中庸の速さで,有節形式(4節) 「美しい水車屋の娘」同様,旅立ちの歌で始まります。ただし,こちらの方は「おやすみ」とかつての恋人の家の戸口に別れの言葉を記して去って行く曲です。歩みを進めるような短調の伴奏に乗って,失意と勇気が交錯する寂しい響きの歌が出てきます。途中,転調をしてほのかに明るくなるところも印象的です。
第2曲 風見の旗 Die Wetterfahne イ短調6/8拍子 かなり速く,3部形式 ”風見の旗”というのは,娘の不実な心の動きを表しています。前奏のピアノは吹き荒れる風の中の旗のざわめきを描いています。旋律のダイナミックな変化は心の動揺を映し出しているかのようです。ピアノの鋭いトリルは金属製の風見が嫌な音を立てている様子を表しています。
第3曲 凍る涙 Gefrorne Traenen ヘ短調 2/2拍子 遅すぎずに,通作形式 悲しさにみちた美しい曲です。上昇した後,力なく下降していく”涙”を表す簡素な前奏が全体の基調を作っています。涙がすぐに凍ってしまうのを嘆き,燃えるような熱さでほとばしれと歌います。
第4曲 氷結 Erstarrung ハ短調 4/4拍子 かなり速く,通作形式 「かじかみ」とも呼ばれます。3連符が絶え間なく続く伴奏が印象的な曲です。歌のメロディの方は単調で,寂寞としたムードを持っています。恋人に対する追憶を探し求め,時折長調になりますが,すぐに胸をえぐるような短調に戻ります。
第5曲 菩提樹 Der Lindenbaum ホ長調 3/4拍子 中庸の速さで,有節形式(4節) 「冬の旅」のみならず,シューベルトの全歌曲の中でも特に有名な曲です。親しみやすい甘い美しさを持ったメロディは,ほとんど民謡と言っても良いほどです。曲は思い出の菩提樹のそばを通りかかった若者の郷愁を描いています。この後,若者は町を出ることになります。

曲は葉のざわめきを描写するような繊細なピアノ伴奏で始まります。途中,短調に変わったり,激しく風が吹きすさぶような雰囲気になったり,描写的に進みますが,全体的には比較的単純な構成になっています。
第6曲 あふれる水流 Wasserflut ホ短調 3/4拍子 ゆっくりと,有節形式(2節) 「あふれる涙」「雪解け水」とも呼ばれる沈うつな厳しい曲です。涙が小川の水に運ばれて行って恋人の家まで流れつくという内容の歌詞です。町は出たけれども,心はまだ町に残っている感じです。付点音符の単純な伴奏が歌の気分を引き締めています。
第7曲 川の上 Auf dem Flusse ホ短調 2/4拍子 ゆっくりと,通作形式 とぼとぼと進む葬送行進曲のような不気味な出だしで始まります。曲は途中長調に変わり,ピアノに3連符が入ったりしてほっとした表情も見せますが全体的には,力ない足取りが続きます。歌詞の方は,凍った川の下に熱く燃える思いがあることを物語っています。
第8曲 回想 Rueckblick ト短調 3/4拍子 速すぎずに,3部形式 「かえりみ」とも呼ばれる曲です。忌まわしい街の回想を表現するかのように,激しい雰囲気を持っています。ピアノ伴奏は右手と左手のリズムがちぐはぐな感じになっており,いらだつ様子を描写しています。中間部は幸福な昔をしのぶように長調になります。終結部は変形されていますが,3部形式となっています。この曲までは,過去を振り返ることの多かった若者ですが,その後は振り返ることはなくなります。
第9曲 鬼火 Irrlicht ロ短調 3/8拍子 ゆっくりと,通作形式 短い曲ですが音域の跳躍があって印象的な曲です。ちらちらと戯れる鬼火に誘われて,出口のない道に若者は迷い込んで行きます。ゆっくりしたテンポでどんどん気分は沈みこんでいきます。
第10曲 休息 Rast ハ短調 2/4拍子 中庸の速さで,有節形式(2節) 歩き疲れた若者は休息を取りますが,かえって心身の傷がうずき出して休みにはなりません。比較的平坦な旋律が続く曲です。憩いにも関わらず歩行のリズムも続いています。
第11曲 春の夢 Fruehlingstraum イ長調 6/8拍子 やや活発に 有節歌曲,有節形式(2節) 久しぶりに出てきた明るい曲です。モーツァルトの曲などを思い出させるようなピアノの軽快な前奏を聞くと不意を打たれたように清冽な気分になります。伸び伸びとした旋律が美しく歌われます。ここでは夢に現れる幸せな春の情景が描かれています。ただし,鶏の声を表すような鋭い伴奏音型の後,目が覚めると悲しみは一層つのっています。その後,再度長調に戻りますが,生気は失われています。
第12曲 孤独 Einsamkeit ロ短調 2/4拍子 ゆっくりと,通作形式 明るい世界よりも嵐の方が救いがある,と思いつめて歌われる救いのない暗く沈んだ曲です。前半はわびしげなピアノの伴奏の上にひたすら沈うつに歌われ,後半は劇的な緊張感を伴ってきます。
第13曲 郵便馬車 Die Post 変ホ長調 6/8拍子 やや速く,有節形式(2節) この曲からは2部(後半)となります。もともとは「菩提樹」の後に置かれていましたが,シューベルトによってこの位置に移されています。「春の夢」同様,前半ははかない希望を感じさせてくれますが後半は自嘲気味に沈みます。前奏の音型は郵便馬車のひづめの音とラッパの響きを描写しています。
第14曲 白髪 Der greise Kopf ハ短調 3/4拍子 ややゆっくりと 「霜おく髪」とも呼ばれる曲です。非常に暗い雰囲気をたたえた曲です。この曲以後,虚脱感と死への憧れが強くなっていきます。伴奏・旋律ともに暗澹として深い憂いに満ちています。
第15曲 からす Die Kraehe ハ短調 2/4拍子 ややゆっくりと,通作形式 町を離れた時から付いて来ている不吉な道連れに親近感を抱いている歌です。単調な3連符のリズムを伴ってピアノが歌のメロディを弾き始め,それを独唱が引き継いでいきます。このピアノと独唱の寄り添い方に何とも言えない寂しさがあります。曲は前の曲と同じハ短調で始まり,似た気分がありますが,途中少し明るい表情を見せます。簡潔な表現の中に不気味な雰囲気が凝縮されてた大変美しい曲です。
第16曲 最後の希望 Letzte Hoffnung 変ホ長調 3/4拍子 速すぎずに,通作形式 調性がわからなくなるような不自然なスタッカートの音の動きで曲は始まります。このスタッカートの音は落葉を描写しているようです。曲は最後に残った1枚の葉に自分の運命を掛けるように不安定な気分で進みますが,最後の葉っぱは無情にも落ちてしまいます。最後の「泣き伏す」という部分は,テンポが遅くなり,慟哭するかのように劇的に歌われます。
第17曲 村で Im Dorfe ニ長調 12/8拍子 ややゆっくりと,通作形式 これもまた,さびしい雰囲気の曲です。冒頭の伴奏音型は犬の遠吠えを表現しているといわれます。この音型はその後も時々出てきます。寝静まった村の人々の夢には希望があるが,自分にはもう夢はないと歌います。伴奏に様々な工夫が凝らされた曲で虚無的な諦念が感じられます。
第18曲 嵐の朝 Der stoermische Morgen ニ短調 4/4拍子 かなり速く、力強く 簡潔な力強さを持った曲です。吹きすさぶ嵐の中で,若者はこれが自分の世界だ,と勇み立ちます。曲の大部分は伴奏と歌のユニゾンで歌われます。
第19曲 まぼろし Taeuschung イ長調 6/8拍子 やや速く,通作形式 長調の曲なのですが,すでに短調・長調の区別を超越したような雰囲気を持っています。「鬼火」とセットのような曲で,若者はまぼろしの光が惑わしの光であることを知りながら,それに従っていきます。光が踊るように,メロディも滑らかに動きます。伴奏の演奏するメロディは常にオクターブでシンプルに演奏されているのも印象的です。
第20曲 道しるべ Der Wegweiser ト短調 2/4拍子 中庸の速さで,有節形式(2節) とぼとぼとした歩行のリズムを持つ前奏に続いて平坦だけれども鎮痛な歌が出てきます。路傍の道しるべを前に若者は,人が戻ったことのない道を行くことを覚悟します。途中長調に転調した後,曲の最後の方では,同音反復が続きつぶやきのような感じになります。平坦さの中に深い味わいを持った名作です。
第21曲 宿屋 Das Wirtshaus ヘ長調 4/4拍子 非常にゆっくりと,通作形式 若者は墓地にささいかかります。彼はここに安息の地を求めようとします。静かな宗教的な味を持った深い伴奏の和音の上に穏やかなメロディが歌われます。ただし,安息を求める若者の希望もここでは認められず,さらに旅は続けられます。
第22曲 勇気 Mut ト短調 2/4拍子 かなり速く、力強く,通作形式 「最後の希望」に通じる簡素で力強い曲です。最後の力をふり絞るような力強さが旅人の中に出てきます。ピアノと声は密着して同じメロディを歌います。
第23曲 まぼろしの太陽 Die Nebensonnen イ長調 3/4拍子 遅すぎずに,通作形式 前曲とは違い旅人の精神状態は再度,死への願望に戻されます。”私はかつて3つの太陽を持っていた”と虚ろに歌われます。この3つの太陽というのは,愛と希望と生命だと言われていますが,その最後の1つも沈みつつあります。前奏で伴奏の出すメロディを独唱が引き継いで行きます。
第24曲 辻音楽師 Der Leiermann イ短調 3/4拍子 ややゆっくりと,通作形式 村はずれでライヤー(ハーディ・ガーディ)のハンドルを回す寂しい老人の姿を描いた簡素なで曲です。旅人はこの老人の姿に,自分と似た姿を見出し,彼について行こうと心を決めます。

「タラー,タラー」という前打音に続いて,ピアノの左手の伴奏は単純に同じ音を繰り返します。ピアノの右手の方はライヤーの音を響かせます。独唱の方も,ほとんどつぶやきに近いような虚無感を漂わせて歌います。この繰り返しは,果ての無い旅路を思わせます。最後,一瞬大きく盛り上がった後,さり気なく全曲が閉じられます。
(参考文献)
作曲家別名曲ライブラリー17;シューベルト. 音楽之友社,1994
ドイツ名歌曲全集.シューベルト歌曲集;第2巻冬の旅.音楽之友社,1975
(2004/05/05)