岩井宏之ギャラリートーク:ハイドン:人と音楽
第2回通奏低音と室内楽・交響曲
2003/10/20 石川県立音楽堂交流ホール
■内容
1.音楽史の中のハイドン(前回の続き)
(1)音楽の潮流の変化:バロック音楽からウィーン古典派へ
(2)バロック音楽の書法とウィーン古典派の書法
(3)演奏会の形態(前回終了)
(4)ハイドンの貢献
2.鍵盤楽器の変遷
3.通奏低音

■演奏曲目
1)ハイドン/ピアノ・ソナタ第36番嬰ハ短調,Hob.XVI-36
2)ハイドン/アンダンテと変奏曲ヘ短調,Hob.XVII-6
●演奏
松井晃子(チェンバロ*1,フォルテピアノ*2)

Review by 管理人hs
↑ハイドン・フェスティバルin金沢のポスターと看板です。
↑講師の岩井宏之さんです。「レコード芸術」誌などでの月評でおなじみの方です。今月は宇野功芳さんに続いて,有名な音楽評論家が金沢に来られたことになります。
2003ビエンナーレいしかわ秋の芸術祭の一環として11月に行われる「ハイドン・フェスティバルin金沢」の関連イベント「ハイドン:人と音楽」というシリーズものの講演会に出かけてきました。今回は,第2回目で「通奏低音と室内楽・交響曲」というタイトルでした。オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の編成はまさにハイドンの交響曲を演奏するための編成なのですが,これまで定期公演などでは,それほど沢山取り上げられてきませんでした。やはり,モーツァルト,ベートーヴェンと比べると,ハイドンにはやや地味なイメージがあるのかもしれません。

今回,こういうイベントが行われたのは,もっとハイドンを知ってもらいたい,楽しんでもらいたい,という期待があるからだと思います。私自身は,ハイドンの交響曲をこれまで数曲聞いてきて,楽しめなかった記憶がありません。どの曲を聞いても「よくできているな」と感じます。というわけで,今回のハイドン・フェスティバルを機会にハイドンの曲が金沢の聴衆に,もっと親しまれてほしいな,と期待しています。

この連続講演会は,9月26日に第1回目が行われ,今回が2回目でした。その後は,フェスティバルの時期と重なって行われますので,1回目,2回目はプレ・イベントということになります。解説は毎回,音楽評論家の岩井宏之さんが担当しています(岩"城"宏之さんの書き間違いではありません。念のために)。今回は,トークに加え,松井晃子さんによるチェンバロ,フォルテピアノの演奏も行われました。毎回,トークだけでなく,生またはCDで音楽を聞く機会があるようですが,今回はステージ上には,装飾品のような楽器も並べられていましたので,まさに「ギャラリートーク」という雰囲気になっていました。岩井さんのお話は少々堅かったのですが,まるでハイドンの交響曲を聞くように,かっちりとよくまとまった話しぶりは,今回の企画の雰囲気にはとてもよく合っていました。

以下,トークの内容を箇条書きに紹介してみたいと思います。今回の講演のタイトルは「通奏低音と室内楽・交響曲」というものでしたが,その前に前回のトークで話しきれなかった部分についての説明がありました。

1.音楽史の中のハイドン(前回の続き,補足)
(1)音楽の潮流の変化:バロック音楽からウィーン古典派へ
  • 18世紀ヨーロッパは社会内部から沸き起こった変革期だった。しかし,音楽はそういう社会の変動を直接映し出すことはできない。このことは音楽に限らず他の芸術にも言える。
  • 社会の変動をいちばんよく表すことのできる芸術は「文学」である。中でも「ロマンス」と呼ばれる長編小説にそのことが言える。
  • ただし,時代別に分けられた美術館の部屋などを見ると,時代の変化は一目瞭然である。いちばん顕著な違いは題材である。昔は聖書の物語,領主の肖像などが中心だったが,18世紀は,人間性回復の運動もあり,自然の中の人物といった絵が出てきた。
  • これと同様のことが音楽にも起こった。バッハの重厚な音楽→明るいモーツァルト,ハイドンの音楽→再度重厚なベートーヴェン,といった変化があった。
(2)バロック音楽の書法とウィーン古典派へ
  • バロック音楽からウィーン古典派の音楽への変化とはどういうものだったか?それぞれの音楽の特徴は,「バロック音楽=多声音楽(ポリフォニー;Polyphony)」,「ウィーン古典派:ホモフォニー(Homophony)」と要約できる。それぞれの音楽の最高の形式が,「フーガ」と「ソナタ形式」(詳細は次回に説明)である。「フーガ」は複雑な印象を与えるが,ホモフォニーの方は,全体としてのまとまりがある。
  • ハイドンは,この変革の時代の中にあって,新しいものを生み出そうとし,音楽の新しい道筋を付けた人だった。長命だったことも幸いしている。人間は生まれる時期を選べないが,ハイドンは,自分の性格にあった時代に生まれた。
  • ハイドンは,創造者といっても,破壊をせずに改良を行った人だった。過去の遺産を取り込んだ上で,新しいものを作っていこうと考えた。
  • 例えば,通奏低音の取り入れ方がそうである。通奏低音はバロック時代に使われた演奏の様式だが,ハイドンは,次のような受け継ぎ方をしている。これは,「ハイドンの是々非々主義」と言える。
弦楽四重奏曲:最初から通奏低音を使っていない。(革新的)
交響曲:ある時期から通奏低音を使っていない。(折衷的)
オペラ:最後まで使い続けた。(保守的。モーツァルト以降も残った)
(3)ハイドンの貢献(前回説明済み)
(4)ハイドンの貢献
ハイドンの曲の歴史的な貢献は次の5点にまとめられる。
  1. 交響曲を沢山書き,4楽章形式に安定させた。交響曲の創始者というわけではないが,モーツァルト,ベートーヴェンの原型を作った。
  2. 弦楽四重奏曲という形式の発明:バロック時代まではトリオ・ソナタしかなかった。弦楽器4人のみの曲はなかったが,この形を発展させ,古典派の代表楽種とした。
  3. 通奏低音の廃止:上述のとおり。
  4. オーケストラの編成の拡大に貢献した。このことの,前提として財政基盤の拡大が必要条件となる。
  5. 三部ソナタ形式の完成。ハイドンはいろいろな楽器のためにソナタを書いた。ソナタ形式ハイドンは,その形式の完成者であり,ハイドンの核心となる形式である。次のことが言える。「オーケストラのためのソナタ=交響曲」である
弦楽四重奏曲:弦楽器2,ヴィオラ,ヴァイオリンのためのソナタ。
交響曲:オーケストラのためのソナタ。
協奏曲:ソリストとオーケストラのためのソナタ
↑今回,演奏に使われたブランテェット(パリ)モデルのチェンバロです。2段鍵盤でノイペルト社製です。この写真はレクチャーの後に撮影したものです。平均律ではなく,古典調律1/6で調律され,ピッチ=415Hzでした。かなり音程は低く聞こえました。
↑アンドレアス・シュタイン(ウィーン)モデル1784年のフォルテ・ピアノです。松尾淳氏の製作によるものです。平均律で調律され,ピッチ=420Hzでした。現代のグランド・ピアノに比べると,力を入れて弾くとと壊れてしまいそうに見えます。
↑今回の演奏には使われませんでしたが,スクウェア・ピアノという楽器です。ジョン・ブロードウッド(ロンドン)のオリジナル楽器(1801年製)です。
↑フォルテ・ピアノのペダルの位置を確認しています。足元ではなく,鍵盤の下部についているとのことです。踏み台があるのは,ペダルをひざで持ち上げるために使います。
2.鍵盤楽器の変遷
  • まず,ハイドンのピアノ・ソナタ第36番(ソナチネ・アルバムにも入っている曲)が松井晃子さんのチェンバロ独奏で演奏された。冒頭部分をチェンバロとフォルテピアノで聴き比べた後,チェンバロで全曲が演奏さた。今回は約半音低いピッチで調律されていたので,現代人には嬰ハ短調の曲がハ短調に聞こえてしまうことになる。
  • この曲は,第1,2楽章が早目,3楽章がメヌエットで緩徐楽章の代わりとなっている。ベートーヴェンのピアノソナタとは作り方が違う。
  • ピアノ類は,鍵盤付き弦楽器と呼ばれる。登場した順に(1)クラヴィコード,(2)チェンバロ,(3)フォルテピアノ,に分けることができる。
  1. クラヴィコード:鍵盤付き弦楽器の始まり。下から弦を押し上げるような形で音を出す楽器。上品な音を出すが,音量が弱かったため,18世紀以降使われなくなり,主流でなくなった。
  2. チェンバロ:弦をひっかいて,鈴のような音を出す楽器。クラヴィコードに比べると音量はあるが,現代のピアノから見ると音量はまだ小さい。チェンバロが登場した当時は,クラヴィコードに比べて”野卑な楽器”と呼ばれたそうだが,今から思うと信じられない。オーケストラの編成が大きくなって来ると,次第に通奏低音用の楽器としては音量的に十分でなくなってきた。
  3. フォルテピアノ:強弱をはっきり出せる鍵盤楽器である。弦を上から打つようにして音を出す。この呼び名が,ピアノフォルテと変わった後,ピアノと省略されるようになって現代のピアノとなった。ピアノのフレームは鋳型で作られるようになり,次第に大きな音が出るようになった。イギリスのブロードウッド社はベートーヴェンにフォルテピアノを送ったが,これがベートーヴェンの創作活動に与えた影響は大きい。
3.通奏低音
  • まず,松井晃子さんのフォルテピアノの演奏でハイドンのアンダンテと変奏曲ヘ短調が演奏された。この曲は,先に演奏された曲よりも有名な曲で,岩井さんも好きな曲とのことだった。今回も冒頭の部分をチェンバロとフォルテピアノで聞き比べた。
  • 続いて,演奏したばかりの松井さんに対して岩井さんが通常のピアノとどう違うかについてインタビューをしました。次のような答えが返ってきました。
チェンバロ:タッチがピアノと全然違う。キーの幅が狭く,指がはみ出てしまう。
フォルテピアノ:ペダルが付いているが,一見どこにあるかわからなかった。ペダルを「踏む」のとは全く逆の動作になるので,慣れるのが大変だった。
現代のピアノ:鍵盤に手応えがあり,フルパワーをぶつけられる。

これらの楽器を演奏してみた良かった点:ハイドン自身が使った楽器ということで,ハイドンがどういう意図でアーティキュレーションを考えていたかが自然に理解できた。フォルテピアノだと,音の減衰が早く,フレーズがすっと切れるが,こういう楽器の特製をいかすことがニュアンスとなることがわかった。
・現代のピアノ演奏に影響するか?:やはり現代のピアノを弾く場合は,違ったことを考えるだろう。
(1)室内楽における通奏低音
  • トリオ・ソナタについて:オルガンの曲でも「トリオ・ソナタ」という曲がある。これは,3人で弾くということではなく,3つの声部から成っているという意味である。
  • 室内楽用編成のトリオソナタについて:「旋律楽器*2+低音楽器(チェロ)+チェンバロ」という編成である。4人で演奏するのにトリオ・ソナタということになる。旋律楽器はヴァイオリンでもフルートでも何でも良い。通常チェンバロの左手とチェロの音が通奏低音となる。チェンバロの右手は,即興的に演奏し音域があいてしまう旋律楽器と通奏低音との間を埋める。
(2)管弦楽における通奏低音
  • 音域的にあくことはないが,慣習的にチェンバロを使用し,目立った音型をはさみ色彩的な変化を加えることになる。
  • オーケストラの場合,コントラバス,チェロ,ファゴット,チェンバロの最大4人の通奏低音となる。ここでもチェンバロの右手は自由に即興的に演奏する。
  • ハイドンの交響曲での通奏低音:ランドンの研究によると1768年の交響曲第49番まではチェンバロとファゴットを通奏低音としていたが,1775年の交響曲第64番ではファゴットのみとなり,チェンバロは使われていない。ハイドンは,1770年代後半以降は通奏低音抜きで演奏されるようになったと言える。
  • ただし,ハイドンの後期の交響曲でも,例えばロンドンなのでは,通奏低音が使われていた。これは集客のための措置である。作曲者自身が通奏低音で参加することでお客さんがたくさん集まった。
(3)オペラにおける通奏低音
  • オペラの通奏低音はハイドン以後も残った。それは,レチタティーヴォ(語る部分)があったからである。この部分は歯切れ良く,さっさと進む必要があったのでチェンバロが相応しかった。このチェンバロ伴奏によるレチタティーヴォは「ドライ・レチタティーヴォ」と呼ばれる。それに対して,オーケストラ伴奏のレチタティーヴォは「アカンパニード・レチタティーヴォ」と呼ばれる。現在では,チェンバロではなく,フォルテ・ピアノを使う方が良いという指揮者も出てきている。
  • ハイドンのイタリア・オペラ:ハイドンはエステルハージー公のためにイタリア・オペラをいくつか作っている。イタリア・オペラを好んだマリア・テレジアは,ハイドンのイタリア・オペラを絶賛していたが,最近はほとんど演奏されなくなった。
■質疑応答
↑講演会が終わった後の会場風景です。ステージ上に並べれた楽器を皆さん眺めていらっしゃいました。
Q:通奏低音としてのチェンバロの左手がなくなったのは分かるが,即興演奏的な右手はなぜなくなったのか?
A:チェンバロの右手による即興的で装飾的な音型がなくても,楽しませることのできる自信が出来てきたからだろう。

Q:ハイドンにはピアノ(チェンバロ)協奏曲があるが,その時の通奏低音のチェンバロはどういう扱いになるのか?
A:独奏パートが休みの時にソリストが通奏低音として演奏を行うことがある。アンドラーシュ・シフがモーツァルトのピアノ協奏曲を演奏する時に通奏低音のパートを演奏するのを見たことはあるが,このパートは楽譜に書かれているわけではないので,個人的にはなくても構わないと思う。

Q:岩井さんは,現代のピアノとフォルテ・ピアノ,チェンバロの中でどれが好きか?
A:現代のピアノに慣れすぎている。古楽器は音が乾き過ぎていると思う。古い時代の演奏は,古楽器でなければいけない,という立場ではない。

このような感じで,大変充実した内容の講演会となりました。古い時代の鍵盤楽器を実演&解説付きで見る機会などは少ないので,とても勉強になりました。次回は,”弦楽四重奏曲・交響曲の発展”ということでいよいよハイドンの真髄に迫るようです。(2003/10/22)