エマ・カークビー&ロンドン・バロック 2005/11/23 こまつ芸術劇場うらら大ホール 1)バッハ,J.S./トリオ・ソナタ 第6番ト長調(オルガン・ソナタBWV530の転用) 2)バッハ,J.S./ジョヴァンニーニのアリア「あなたの心をくださるのなら」BWV518({アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳}から) 3)バッハ,J.S./アリア「まどろみなさい」BWV82-3({アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳}から) 4)バッハ,J.S./アリア「私とともにいてください」BWV508({アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳}から) 5)ヘンデル/チェンバロ組曲第1集第5番ホ長調HWV430〜前奏曲,エアと変奏(調子のよい鍛冶屋) 6)ヘンデル/モテット「おお,何か,天から響くこの声は」HWV239 7)ヘンデル/トリオ・ソナタト短調,HWV393 8)バッハ,J.S./ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタニ長調,BWV1028 9)ヘンデル/グローリア(2001年3月発見) 10)(アンコール)バッハ,J.S./カンタータ「汝の主なる神を愛すべし」BVW.77から 11)(アンコール)ヘンデル/歌劇「リナルド」〜私を泣かせて下さい ●演奏 エマ・カークビー(ソプラノ*2-4,6,9-11) ロンドン・バロック(イングリット・ザイフェルト,リチャード・クヴィルト(ヴァイオリン*1,6,7,9-11),チャールズ・メドラム(ヴィオラ・ダ・ガンバ*1-4,6-11),テレンス・チャールストン(チェンバロ))
今回,演奏の行なわれたこまつ芸術劇場うららの大ホールは,チェンバロやヴィオラ・ダ・ガンバの演奏を聞くには「少し大きいかな」という気はしましたが,石川県立音楽堂の邦楽ホールを一回り大きくしたぐらいの広さでしたので,アンサンブルを聞く分には全く問題はありませんでした。今回,プログラムがかなり渋めだったこともあり会場には空席が目立っていましたが,聞きに来ている人たちはとても熱心でした。カークビーさんとロンドン・バロックの演奏は,一言でいうと「しっくり行く」という感じです。お客さんの方も,その見事な演奏にピタリと応えるような拍手を送っていました(アンコール曲の拍手のタイミングは早過ぎましたが)。 今回の演奏の主役は,何と言ってもエマ・カークビーさんでした。クリストファー・ホグウッドなどによるイギリスの古楽演奏のCDが1980年代前半ぐらいから日本で注目されるようになり,今ではスタンダードのような地位を築いています。その潮流の中に咲く,美しい花のような存在がカークビーさんです。バロック以前の音楽をレパートリーとするソプラノの中では,もっともよく知られているスター歌手です。すでに,かなり長いキャリアをお持ちの方ですが,相変わらず見事な歌を聞かせてくれました。 ただし,「相変わらず」と書いておきながら,実は,じっくりとカークビーさんの歌を聞くのは今回が初めてのことです。軽く透明なヴィブラートの少ない声ですっきりと歌う歌手という印象を持っていたのですが(事実,そのとおりだったのですが),今回は,さらに表現の幅が広がっているような印象を持ちました。特に最後に演奏されたヘンデルのグローリアでの「深い表現」と「鮮やかな技巧」という相反するような二つの側面を鮮やかに歌い分けていたのが見事でした。 この日のプログラムは,非常に多彩なものでした。カークビーさんの歌が中心ではあるのですが,それ以外にもヴァイオリン2本,ヴィオラ・ダ・ガンバ,チェンバロの4人編成による室内楽,チェンバロ独奏,ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのデュオなどバロック音楽の器楽・室内楽演奏をいろいろな角度から楽しませてくれました。 まず,バッハのトリオ・ソナタが演奏されました。”トリオ”といいつつ4人による演奏なのですが,ここでの"トリオ"というのは3声部ということになります。オリジナルのオルガン曲の右手,左手,足鍵盤の3声部を4つの楽器に振り分けての演奏していました。 4人の奏者が入ってくると,非常に入念にチューニングを始めました。特にメドラムさんの演奏する,ヴィオラ・ダ・ガンバは演奏中にも何度か音程のチェックをしていました。特に音程が狂いやすい楽器なのかもしれません。プログラムの記述によると「チューニング・ピッチ:a=415Hz,チューニング法:ヴァロッティ調律」とのことでした。上述のとおり,全曲に渡り「しっくり行ってるなぁ」と感じたのたのは,この調律へのこだわりと正確さが基盤にあるのではないかと思いました。 今回,演奏していたヴァイオリンは,バロック・ヴァイオリンだったようですが,客席から見た感じは,普通のヴァイオリンと区別が付きませんでした。あご当てがないのが違うぐらいでした。ヴィオラ・ダ・ガンバの方は,チェロのエンド・ピンがなく,両足の間にはめ込むような感じになります。弦の数が多く,ペグの部分がギターのような感じなので,チェロとギターが合わさった感じなのが面白いところです。 音量はやはり現代の楽器と比べると小さいと感じました。音質もくすんだ感じでかなり地味に聞こえましたが,次第にその音に慣れてきました。チェンバロ,ヴィオラ・ダ・ガンバといったデリケートさのある楽器と合わせる場合,バロック・ヴァイオリンの方がしっくり来ることが分かりました。「古楽器演奏=過激な演奏」と勘違いされることもありますが,ロンドン・バロックの演奏には,どこにも攻撃的なところはなく,急−緩−急という伝統的な3楽章形式を念入りに,そして生き生きと描き分けていました。特に第1ヴァイオリンのイングリット・ザイフェルトさんのしっとりとした落ち着きを感じさせる歌いぶりが素晴らしいと思いました。「古楽演奏といえば,ノン・ヴィブラート」と思っていたのですが,部分的にはヴィブラートも使っているように見えました。その点も味わい深さを感じさせてくれた理由かもしれません。 次のコーナーでは「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」の中から3つの歌曲が演奏されました。素晴らしい笑顔をたたえたカークビーさんが,ちょっとくすんだ感じの緑色の衣装を着て登場するとステージは急に華やかになりました。カークビーさんは,髪型,表情といった体全体から発散されるすべての要素が,古楽の歌手というイメージにピタリと来ます。時代を飛び越えて,現代のステージに現われてきたような雰囲気を持った方です。 ここで歌われた3曲は,どれも家庭用の音楽という暖かさのあるものでした。カークビーさんの声は,知性とウィットと暖かみとがバランス良く共存しています。抑制が効かせながらも,とても息が長く滑らかな歌を堪能させてくれました。特に2番目に歌われた,バッハのカンタータ第82番の中のアリアをソプラノ用に移調した「まどろみなさい」という曲は,その名のとおりの気持ちの良い深さを持った曲でした, その後,テレンス・チャールストンさんのチェンバロ独奏となりました。ここでは,ヘンデルのチェンバロ組曲第5番の中から2曲が演奏されました。プログラムでは全曲演奏されるような感じで書いてありましたが,実際には2曲だけが抜粋されて演奏されていました。この組曲はピアノでも演奏される「調子の良い鍛冶屋」が入っていることでよく知られています。 このチャールストンさんのチェンバロが見事でした。何度も繰り返し同じ言葉を使いますが,この演奏もまた,「しっくり行く」演奏でした。最初の和音から安っぽいところがなく,しっかりと地に足が付いていました。楽器の音を聞くだけで幸福感を感じさせてくれるような素晴らしいチェンバロでした。変奏曲の演奏もしっかりと計算がされた見事なものでした。初めのうちはのんびりと優雅に装飾音まじりで演奏されるのですが,次第に音符が細かくなっていきます。チェンバロなので音量が大きくなるわけではないのですが,最後の変奏では音の流れの良さと粒立ちの良さが素晴らしく,しっかりと曲全体のクライマックスを築いていました。 前半最後は,再度全員が揃って,ヘンデルのモテットが演奏されました。最初,カークビーさんがいなかったのでどうしたのかな?と思っていたのですが,歌の入る直前に,袖からスッと入ってきて,爽やかに歌い始めました。この動きのある鮮やかな演出は,オペラの気分を感じさせてくれるものでした。歌の部分は,レチタティーヴォとアリアという構成になっていましたが,そのスピード感のある展開が見事でした。最後のアレルヤの部分での表情の豊かさも魅力的でした。 後半の最初はヘンデル(偽作とのことですが)のトリオ・ソナタでした。この曲も4人によるトリオです。曲は「緩−急−緩−急」という4部構成なのですが,緩−急で1セットのように演奏していましたので,結局,2部構成のようにも聞こえました。この曲もまた魅力的な曲でした。特に2つのヴァイオリンの明確な音の動きが素晴らしかったので,2つのヴァイオリンのためのソナタという曲でもありました。ト短調という調性の持つ切迫したムードと合わさり,しっとりとした気分の中に激しさを秘めた演奏となっていました。 ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタは,非常に味わい深い曲であり演奏でした。どちらの楽器も音量が小さいこともあるのか,2人の奏者が頭を寄せて相談しあうような親密な雰囲気で演奏されました。チェンバロのチャールストンさんは,他の曲でも常に他の楽器の方向を向いて演奏していましたが,そのバランス感覚は素晴らしいと思いました。メドラムさんのヴィオラ・ダ・ガンバの音も豊かに歌うというよりは,静かに語り,瞑想に耽るような雰囲気がありました。地味な雰囲気ではありましたが,室内楽の精髄を感じさせてくれるような演奏でした。 最後に演奏されたグローリアは,最初に書いたとおり演奏会全体の白眉となる演奏でした。1983年に再発見され2001年に初演された「新曲」なのですが,まず曲の素晴らしさに感激しました。ラテン語の歌詞に曲が付けられていますので,一見,ミサ曲の中の一楽章のような感じなのですが,この1曲の中に多彩な曲想がぎっしりと詰め込まれて,最後は華やかに盛り上がりますので,この曲だけで完成された立派な作品と言えます。 曲は歌詞に対応して6つの部分からなっています。まず,「グローリア...」という歌詞がコロラトゥーラを交えて元気よく歌われます。その後は,「地においても...」という歌詞に合わせて落ち着いた感じになります。 カークビーさんと言えば,軽い声という印象を持っていたのですが,この前半の2部分を聞いただけでも,その声が良い形で円熟して来ていることが感じられました。声全体に落ち着いた雰囲気を感じました。もともと高次元にある歌手の表現の幅が広がり,さらに高度な次元に進化しているという印象を持ちました。 「私たちはあなたを讃え」という部分でまた元気になった後,「主なる神よ,天の王よ」の部分で次の曲に続くレチタティーヴォとなります。その後,「世の罪を取り除きたもう方,私たちを哀れんで下さい」というミゼレーレの部分になります。この部分が感動的でした。チェンバロの音が,艶を消たような虚無的な響きになり,その上に深い思いがこもった歌が続きます。古楽演奏ということで,基本的には透明でさらりとした感覚も残しているのですが,その中から深い情感が漂ってきます。 最近,広島で小学1年生の女子が殺害されて遺棄されるという惨い事件がありましたが,この曲の美しさを聞きながら,人間とは何と愚かなものだろう「私たちを哀れんで下さい」と痛感しました。 最後の部分は,「なぜならあなた一人が神聖であり」で始まりますが,最後,「聖霊とともに」の部分で急にテンポが速くなります。この部分はコロラトゥーラ・ソプラノの技巧が存分に生かされており,華やかに結ばれます。ただし,華やかといっても,歌には節度があり,曲全体のバランスの中にちゃんと納まっているのがカークビーさんとロンドン・バロックらしいところです。 このグローリアは,聞き所が凝縮されたような,大変聞き応えのある曲でした。新発見の曲ですが,これからどんどん演奏されていって欲しい曲だと思いました。 拍手に応えてアンコールが2曲演奏されました。これまで演奏されてきた曲もバッハとヘンデルの曲ばかりでしたが,ここでもバッハとヘンデルが1曲ずつ取り上げられました。2曲目の歌劇「リナルド」の中のアリアは,近年,とてもよく歌われるようになってきている曲です。映画「カストラート」の中で使われたのがきっかけだと思います。最近亡くなった本田美奈子さんの「AVE MARIA」というクラシカルなアルバムの中にも収録されています。カークビーさんは,この曲をゆっくりとしたテンポで表情豊かに歌い,演奏会全体を美しく締めてくれました。 今回登場した,カークビーさんとロンドン・バロックの演奏は,古楽演奏といっても過激なところはなく,すべてが美しく整っている演奏でした。ステージ上での折り目正しい雰囲気も合わせて,とても爽やかで清々しい気分の残る演奏会でした。 PS.演奏後はサイン会が行なわれ,大変賑わっていました。演奏会の運営にはボランティアの方が沢山関わっていましたが,その応対にも暖かい雰囲気がありました。その点でも気持ちの良い演奏会でした。
NHK大河ドラマ「義経」も大詰め近くになってきました。次週は「安宅の関」ということで,それにちなんでコンサート前に出かけてきました。
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