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ラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭2008:ベートーヴェンと仲間たち
【322】アブデル・ラーマン・エル=バシャ
2008/05/05 12:30- 石川県立音楽堂邦楽ホール
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第7番ニ長調,op.10-3
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第8番ハ短調,op.13「悲愴」
●演奏
アブデル・ラーマン・エル=バシャ(ピアノ)
Review by 管理人hs    
ラ・フォル・ジュルネ金沢(LFJK)最終日は,図らずも”ピアノの日”になりました。午前中に「ハンマークラヴィーア」,午後からは「皇帝」。この大曲2曲の間に聞いたのが,アブデル・ラーマン・エル=バシャさんの独奏による初期のピアノ・ソナタ2曲でした。

エル=バシャさんは,レバノンのベイルート出身のピアニストで,1970年代後半にエリザベート王妃国際コンクールで優勝した頃からお名前は聞いたことはあったのですが(レバノン出身のピアニストというのは,他に聞いたことがなかったので,そのこともあり強く印象に残っていました),実演を聞くのは今回が初めてでした。エル=バシャさんは,1980年代の初頭に一度,オトマール・スウィトナー指揮NHK交響楽団と共演しているはずで,そのFM放送を聞いたのが唯一の演奏を聞いた機会です。

その時の印象は,「癖のあるピアニストとだなぁ」というものでした。スウィトナーさんの作る直線的な音楽と全然方向が違うのです。というわけで,「今回は一体どういうベートーヴェンを聞かせてくれるのだろう?」と期待と不安半々の気持ちで演奏を待ちました。

演奏が始まると,はじめはあまりの素っ気無さにちょっと拍子抜けしたのですが,次第に「これはすごい」と実感しました。音楽全体がすべて計算されているのです。演奏する姿も背筋をスッと伸ばしたスタイルを崩さず,全く無駄がありません。実に知的な音楽でした。1980年代にFMで聞いた時とは全く別人のように思えました。

最初に演奏されたピアノ・ソナタ第7番は古典的なソナタ形式の第1楽章で始まります。音楽の構成が緻密で虚飾なくまとまっていました。時々,意味深な休符が入ることで音楽の奥行きが増していました。

第2楽章にはどこか虚無的な気分がありました。初期のピアノ・ソナタでこれだけ深い味が感じれるとは思いませんでした。第3楽章は一見無邪気なのですが,やはり,その中に不思議な味わいがありました。第4楽章は,かなり速いテンポでしたが,全く慌てた感じがしませんでした。

全曲を通じて,音楽の密度が非常に高く,大げさな音楽では全くないのに,強弱のコントラストや音楽の構造がくっきりと浮きかがってくるような見事な演奏になっていました。

もう1曲演奏されたのは,おなじみのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」でした。こちらも抑制の聞いた演奏で,特定の部分だけが浮き上がるのではなく,3楽章全体をがっきりと聞かせる演奏となっていました。

第1楽章の序奏部には大げさな悲劇性はなく,抑制された音楽で始まりました。意味深さを感じさせる間を取っていたのは前曲と同様でした。展開部もしっかりとコントロールされており,古典的にがっちり引き締まった印象を与えてくれました。

有名な第2楽章もさらりと歌われており,甘さはありませんでした。どこか虚無的な感覚の漂う透明な音楽で,この楽章だけが浮くことはありませんでした。中間部では十分に盛り上がるのですが,やはりしっかりと計算されたバランスの良さがありました。

第3楽章へはアタッカで繋がっていました。ここでも,速いテンポだけれども慌てたところのない緻密な音楽を聞かせてくれました。しかも音楽全体としては,決して地味ではなく,色彩感の変化もあり華麗でした。

初めて実演を聞いたエル=バシャさんですが,凄いピアニストだと思いました。さりげなく弾いているのに,すべての水準が高く,ベートーヴェンの音楽だけが鮮やかに再現されていました。エル=バシャさんは,今のところ,「知る人ぞ知る」ピアニストという存在ですが,是非また金沢に来てほしい方です。とりあえず,来年のLFJKへの登場を期待したいと思います。(2008/05/12)