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音楽堂室内楽シリーズ2014第4回:「平均律+(プラス)」ピアノコンサート
2014年10月31日(金) 19:00〜 石川県立音楽堂交流ホール

バッハ,J.S./平均律クラヴィーア曲集第1巻〜第1〜8曲
ムソルグスキー/展覧会の絵
(アンコール)バッハ,J.S./ゴルトベルク変奏曲〜アリア
●演奏
上杉春雄(ピアノ,トーク)


Review by 管理人hs  

今年の音楽堂室内楽シリーズ第4回として行われた上杉春雄さんのリサイタルを聞いてきました。このシリーズでは,これまでは文字通り室内楽編成のプログラムだけを扱っていましたので,ピアニスト一人というのは,今回が初めてだと思います(そういう意味では,正確には「リサイタル」ですね。)。

上杉さんは,医師でありながら,ピアニストとしての活動も続けている異色のピアニストです。ただし,その演奏は正攻法で,長年に渡って特定の作品を研究し,真摯に向き合っていることがしっかりと伝わってくるような演奏でした。

今回のプログラムは前半がバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻の1〜8番,後半がムソルグスキーの「展覧会の絵」全曲でした。今回の公演は,石川県立音楽堂交流ホールで行われたのですが,そのステージと客席との距離の近さを生かし,上杉さんのトーク(というよりはレクチャーでしょうか)を聞いた後,曲を楽しむという構成でした。それが大変良かったと思います。

まず,上杉さんが執筆した曲目解説リーフレットが素晴らしく,バッハの平均律が4曲単位で一つのまとまりになっていることなど,なるほどという情報が満載の内容でした。それに加え,上杉さんのトークの内容も充実していました。上杉さんの解説を読んで,トークを聞いた後だと,音楽がより一層,聞きごたえのあるものになっていました。そのトークの内容と併せて,紹介したいと思います。

演奏に先立ち,前半はまず,バッハの平均律クラヴィーア曲集についての解説がありました。上杉さんは次のようなことを語っていました。

  • バッハゆかりの土地,ケーテンに行ったとき,この日の会場の交流ホールのような場所で演奏を聞いたことがある。
  • 40歳頃から,平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏に挑戦している。
  • 平均律クラヴィーア曲集については,モーツァルト,ベートーヴェン,シューマン,ショパン.など多くの作曲家が勉強している。.
  • この作品は「多様性を許容した豊かさへの意志を持った作品(正確でないかもしれません)」である。多少濁った音があっても,それを許容する。誰もが立派と認めるようなものだけではなく,色々なものをひっくるめたところに豊かさがある,というのがバッハの思いだったのではないか(恐らく,こういった内容が上杉さんの平均律のCDの解説に書かれているのだと思います。)。
  • 画家の熊谷守一の「下手も絵のうち」という言葉がある。絵にはその人が出る。下手な人は下手で良い,下手な絵も認めなさいといった意味。その言葉に通じるところがある。

演奏は,曲目解説どおり,1番から4番まで,5番から8番までと2回に分けて演奏されました。上杉さん自身,平均律クラヴィーア曲集は演奏会で通して演奏されることはほとんどない,と語っていましたが,私を含め,この曲を聞きこんでいないお客さんの方が多いと思いますので,この「4曲単位で聞く」というスタイルはとても良いと思いました。

最初の第1曲の前奏曲は,バッハの曲の中でも特に知られた曲だと思います。ハ長調という調性どおり,何の衒いも曇りもない,晴朗な音楽でした。フーガの方もいかめしい感じはしませんでした。第2曲は曲目解説にあったとおり,第1曲と対になる性格を感じました。第3曲では嬰ハ長調という「あまり聞きなれない」調性のとおり,異次元に飛んだような感覚になりました。それでも飛び過ぎないのが上杉さんらしさかもしれません。

そして,第4曲です。上杉さんの解説に書かれているとおり,4曲ごとに重い曲が入り,クライマックスが作られます。第4曲については,「コンパクトにまとまった受難曲である」と書かれていましたが,なるほどと感じました。色に例えると,濃い色に覆われたような感じで,たっぷりとした豊かな歌に溢れていました。主要なメロディが3つ出てくるのですが,それぞれが三位一体の各パートに対応していることがよく分かりました。

ちなみに第1曲から第4曲までの調性は次のような配列となります。
  1. 第1曲 ハ長調
  2. 第2曲 ハ短調  ♭♭♭
  3. 第3曲 嬰ハ長調 #######
  4. 第4曲 嬰ハ短調 ####
第4曲に向けて,大きく盛り上がる大変立派な演奏だったと思います。ここで上杉さんが一旦袖に引っ込んだ後,第5曲〜第8曲が演奏されました。

第5曲は,細かい音の動きが活発でショパンのエチュードを思わせるところがあると思いました。前述のとおり,ショパンは平均律を勉強していたとのことですが,なるほどと思いました。第6曲は,宗教曲の定番のニ短調で書かれています。そう言われると,正統的宗教曲だ,といった感じの曲でした。第7曲は変ホ長調,ベートーヴェンの「英雄」の調性ということで,大変堂々としていました。こうやって次々と調性が移り変わり,別の世界が広がるのがこの曲集の真骨頂と言えるのかもしれません。

前半最後の第8曲は,やはりこのパートのクライマックスで,深い諦観の伝わってくるようなサラバンドになっていました。

第5曲から第8曲までの調性は次のような配列となります。
  1. 第5曲 ニ長調  ##
  2. 第6曲 ニ短調  ♭
  3. 第7曲 変ホ長調 ♭♭♭
  4. 第8曲 嬰ホ短調 ♭♭♭♭♭♭
私は楽典の知識はほとんどないのですが,こうやって並べると,「規則性」のようなものを見つけたくなりますね。

上杉さんの演奏には,真正面からバッハに取り組んでいる真摯さがありました。そして,一見,取っつきにくそうな曲集の各曲ごとの個性をしっかりと伝えてくれました。何より,全曲の構成を見据えた演奏になっているのが素晴らしいと感じました。上杉さんは,平均律の全曲演奏をライフワークとされているとのことです。是非,9曲目以降も上杉さんの解説付きで聞いてみたいものです。

後半は,こちらも上杉さんがずっと弾き続けている曲である,「展覧会の絵」演奏されました。曲の前のトークでは次のようなことを語っていました。

  • NHKアナウンサーだった山根さんからインタビューを受けた時「音楽を文字にすることは危険である」といったことを語っところ,鋭く突っ込まれ,音楽という芸術について考えるようになった。
  • 「音楽」であるとか「心」といったものは,形のないとらえどころのないものである。それを文字にすることは危険である。音楽とは,そういうとらえどころのないものである。対照的に「絵画」は動かないもの,形あるものである。こちらの方は,「時間」を表現することがが難しい。「芸術」と「時間」の関係について考えてみるようになった。
  • 9月にフェルメールについてのコンサートを小林  さんと行った。フェルメールの全37作品のうち,音楽を題材としてものは14点ある。この割合は他の画家に比べると多い。
  • 音楽は,絵画の中で時間の流れを表現する手段・象徴として使われる。その他,人間関係を暗示するために使われたりする。
  • 多くの画家は,絵画の中で時間を表現することに苦労してきた。例えば,クレーは絵具が剥がれ落ちることを計算して作品を作っている。ポラックは筆の動きそのものを残そうとしている。
  • 対称的に,音楽の方は時間を超えた堅牢さを出すのに苦心している。その手法がフーガである。
  • 絵画と音楽は,それぞれ自分にないものを目指している。バッハの平均律クラヴィーア曲集は,絵と音楽という相反する方向性をまとめようとした作品である。

上杉さんのお話は,このように音楽だけではなく絵画にも及んでいました。特にしっかりとした形のある美術と何かとらえどころのない時間芸術である音楽との関係については,「なるほど!」と感嘆しました。知的な好奇心を刺激してくれるような深い内容を大変分かりやすく,穏やかな口調で語って頂けました。この語りの力も素晴らしい才能だと感じました。

後半の「展覧会の絵」は,上杉さんが14歳(!トークではそう語っていました)の頃からずっと弾き続けている曲とのことです。曲目解説によると,「殻をつけたひな鳥の踊り」を中心として,似た性格の作品がシンメトリカルに配列されているとのことでした。この組曲の各曲の原題は「多言語」で書かれているのですが,途中何回か出てくる「プロムナード」を抜かすと次のような配列になります(上杉さんによる曲目解説から抜粋して書いたものです。)。「なるほど」という感じです。
  1. プロムナード(回廊)
  2. グノームス(土の精の小人;原題:ラテン語)
  3. 古い城(原題:イタリア語)
  4. チュイルリー。遊びの後の子供の諍い(原題:フランス語)
  5. 牛車(ポーランド語)
  6. 卵の殻をつけたひよこの踊り(原題:ロシア語)
  7. サミュエル・ゴールデンベルクとシミュイル(原題:ドイツ語)
  8. リモージュ。市場。大ニュース(原題:フランス語)
  9. カタコムベ(ローマの地下墓地;原題ラテン語)〜死者とともに,死者の言葉で
  10. 鶏の足に立つ小屋(バーバ・ヤガー;原題;ロシア語)
  11. 大きな門(首都キエフにある)(原題:ロシア語)
冒頭のプロムナードは,しっかりと率直に始まりました,完全に手の内に入った演奏という堂々として弾きぶりでした。「古城」は,先ほどのトークにあったとおり,「トーント,トーント」というリズムの繰り返しが時間を感じさせてくれました。

その後の各曲もまったく曖昧さのない,鮮やかな演奏を聞かせてくれました。何が出てくるか分からない破天荒なすごみといった世界とは別の,まさに美術館の中で展覧会の絵を見て回るような美しさを感じました。

上杉さんのピアノには,大げさな身振りはなく,ストレートに曲の核心に迫ろうとする率直さがあります。間近で聞くピアノの音には引き締まった力感とダイナミックレンジの広さがあり,「絵画」というよりは,彫りの深い,大理石のギリシャ彫刻を間近で見るような,惚れ惚れとするような鮮やかさがありました。

最後の「キエフの大門」の最後の部分にからも,全部の作品を観終わった後の余韻を感じさせる落ち着きが伝わってきました。「大人のための展覧会の絵」といった趣きがありました。個人的に「しっくりくるなぁ」といった感じた素晴らしい演奏でした。

アンコールでは,バッハのゴルトベルク変奏曲のアリアが,凛とした感じで演奏されました。この変奏曲もまた,バッハならではの構成の妙に溢れた作品ですので,是非,上杉さんの分析&解説付きで全曲を聞いてみたいものです。

上杉さんの演奏には,医師を続けているからこそ実現できるような表現もあるののではないかと思います。その幅広い教養に支えられたような演奏は,独自の境地と言って良いものかもしれません。上杉さん自身がPRされていたとおり,この続編企画として,平均律パート2にも期待したいと思います。

(2014/11/08)






音楽堂の外の立看板


音楽堂入口のポスター





終演後,サイン会が行われました。ただし...平均律のCDは売り切れになっていました。というわけで,プログラムの表紙にサインをいただきました。