クラシック音楽のコンサートの楽しみ方:芸術文化サポータのすすめ 本文へジャンプ
第5章 おわりに:音楽は人生

音楽による感動二つ
                                                   
人の心を動かす音楽には二種類ある。それは、「一期一会的な音楽」と「普遍的な音楽」である。一期一会的音楽というのは、その人にとってだけ特別な意味を持つ音楽である。例えば、私にとっての松田聖子の初期のヒット曲の数々である。他の人はどうかは知らないが自分にとっては、とても大切な音楽で、その頃の自分が蘇ってくるような音楽のことである。少々気恥ずかしいところもあるが、かけがえのない音楽。こういう音楽の一、二曲は、誰もが持っていることだろう。

それに対し、普遍的な音楽というのは、誰もが一目置く曲のことである。人間の存在を超えているような音楽ともいえる。例えば、ベートーヴェンの第九交響曲である。この曲は、毎年年末に演奏されるが、そのたびに、聴衆は「立派な曲だ」と感じる。長さに退屈したり反発したりすることがあるかもしれないが、どの人も偉大さを感じる。そういう曲を聴いて、個人的な思い出につながることはあまり無いかもしれないが、人間を超越した存在に近づいたような感覚を持つことがある。

前者による感動を「個人的感動」と呼ぶならば、後者による感動は「普遍的感動」と呼べる。それぞれ「好きな音楽」「尊敬する音楽」と呼んでもよい。どちらが良いとはいえない。どちらも必要である。この二つが同じ曲になる場合も多い。同時代の人すべてが好きな音楽という場合もある。そうなってくると、この二つの区分は曖昧になるが、いずれの場合も、音楽が心に深く届くことで感動が残る。私たちの生活の中に、この二つの感動が残ることで、人生の輝きが増す。

この本の「まとめ」として,ここでは、人間の生活と音楽のつながりについて私の思うことを書いてみたい。前者の「好きな音楽」は、個人の経験によって多様だから、主に後者の「普遍的音楽」の持つ大きな力について書くことにする。

私とクラシック音楽との出会い
                                                   
私がクラシック音楽を熱心に聞くようになったのは、小学校高学年から中学生の頃である。きっかけを作ったのは、少々マニアックな同級生だった。1970年代当時は、FM放送の全盛期で、音楽を聴くことより、エアチェックという行為自体を目的とする人が多かった。私もその一人だった。私は、その友人にならって、昆虫採集をするように、いろいろなクラシック音楽を集め、コレクションのリストを作っていった。その後、関心はLPやCDの収集へと移ったが、「コレクションの対象としてのクラシック音楽」という点で大差はなかった。それでも、FM放送、LPレコード、CDなどでクラシック音楽を次々と聴いていくうちに、多くの曲を覚え、演奏者や作曲家についての知識も増えてきた。「これは、なかなか奥の深いものだな」と次第に思うようになってきた。

時代が昭和から平成に変わりつつあった時、私の住む金沢市にOEKが出来た。クラシック音楽に親しんでいたとはいえ、生の演奏を聴く機会などほとんどなかった私は、この「日本初のプロ室内オーケストラ」に期待した。これまで、クラシック音楽は、西洋人が演奏するものをステレオを通して聴くのが正しいと思っていたのだが(そこにはスノッブの陥りやすい本場主義のような考えもあったかもしれない)、私の住む金沢市から生きた音楽が生まれ出るようになるのだと思うととてもうれしくなった。

OEKができてからは、毎月のように演奏会に行くようになった。そのうち、家の中で音楽を聴くよりは、生で聴く方が音楽に集中できることがわかってきた。生で音楽を聴くようになると、音楽が生活の中により深く入り込んでくるようになった。平凡な私の生活の中にちょっとした緊張感とリズムと華やかさが加わるようになった。私は、音楽を生で聞く喜びをOEKの演奏会を通じて初めて知った。音楽には、コレクションし、知識を貯える楽しみもあるが、それ以上に、音楽を真剣に聴くことで今自分が生きている時間をより深く生きることができることがわかってきた。

生で音楽を聴く喜び
                                                   
音楽を生で聴く喜びとは何か?それは、日常を離れ、別の時空間に入り込むことである。近年は少なくなったとはいえ,仕事の合間に「ちょっと一服」と煙草を吸う人がいる。その感覚と似ている。煙草を吸う人は、煙草を吸うという行為のためではなく、自分だけの時空間を確保するために吸っているのである。私にとって、この「ちょっと一服」にあたるのがクラシック音楽の演奏会である。

その時空間は音だけからなる非常に抽象的なものである。その中で、私は自分の心と対話をし、心を動かす。読書、美術鑑賞といった行動でもこういう対話はあるが、私の場合、クラシック音楽をコンサート会場で聞くことによっていちばん強く心を動かされる。現代社会の中で他人から邪魔をされずに、自分自身の心とある程度の緊張感をもって対話をできる時空間はどれだけあるだろうか?日常生活の中では皆無といっても良い。その点で、現代社会では自分だけの時間に浸ることがいちばん贅沢なことだといえる。クラシック音楽の場合、一曲で三十分〜一時間ぐらいの物理的な長さを持っているため、自分自身と対話のできる時間も長くなる。しかも、内容は抽象的で生活感がない。日常の雑事を忘れるには最適である。適度の緊張感もあり、家でCDを聴くよりは各段に集中して音楽を楽しめる。演奏会場までわざわざ出かけて音楽を聞くことのいちばんの意義はここにある。孤独になるために演奏会に行くともいえる。

孤独になって、自分の中に流れる音楽をじっと味わう時、音楽は、言語による情報伝達を越えた、より根源的な力を持っていることを感じる。音楽は人生に似ているのである。人生そのものを凝縮して感じさせてくれる。すべての音楽は無音から始まる。その後、メロディや和音が展開し、テンポが変わり、クライマックスを築いて再び無音に戻る。音楽も人生も最初と最後がある一つの時間の流れである。

ベートーヴェンの第五交響曲は、具体的なストーリーを持った標題音楽ではなく、抽象的な音楽であるが、私は聞くたびに人生を感じる。何もない静寂から運命の動機が現れ、曲中のいくつかのクライマックスを経て、勝利のフィナーレに至る。その後に再度静寂が訪れる。拍手。生から死への一つのまとまった世界を約三十分の中で味わえる。しかもその意味づけの仕方は個人の自由である。

音楽は、抽象的であるからこそ、普遍的であり、根源的な力を持つ。明確に自覚している人は少ないと思うが、有名なクラシック音楽を聞いて口では説明できない凄さを感じることがあるのは、「クラシック音楽=人生」だからである。これは音楽の持つ根源的な力を意味している。クラシック音楽はそれ故に「クラシック」という一ランク上の冠称が付けられているのである。

別の曲を聞けばまた、別の人生を味わうことができる。聞く側の心の状態が違えば同じ曲でも違う風に響く。そのこともまた面白い。その多様性は、名曲と呼ばれる曲ほど幅が広い。そこには、人生がシンプルな強さを持って表現されている。

モーツァルトのクラリネット協奏曲を聞いてみよう。この曲は、シンプルな長調の曲だが、それが明るく響くこともあれば悲しく響くこともある。気分の良い時に聞いて気持ちよく感じるだけではなく、明るい気分の時に聞いて、ふと悲しさを感じたり、悲しい気分の時に聞いて明るさを感じたりと実に複雑な味わいを持っている。それが非常にシンプルな形の中に納まっている。このような特徴は、この曲以外のモーツァルトの晩年の作品にもよく見られる。モーツァルトが天才と呼ばれる所以である。

こういった感触を持つ作品は、ポップス、歌謡曲などクラシック音楽以外の音楽には少ない。私は、前述のとおり松田聖子のヒット曲も大好きなのだが、その音楽は、一面的でより具体的である。そのため、特定の時代の空気と結び付きやすい。そのことが悪いわけではない。そういう音楽が時代や空間を超えた広がりを持つかどうかの問題である。

自然の感じられる音楽
                                                   
それとは別の話題だが、近年のポップスの中には、音楽を「味わう」ことを拒否するような曲が増えてきている。人間の心拍数を遥かに越えた速さのビートや電気的に作られた複雑で強烈なリズムの上に乗せられた音楽を味わうことはできない。リズムに陶酔する楽しみもあるが、音楽は本来自然の法則の上に存在すべきものだと私は思う。クラシック音楽には、弦を擦り、管を吹き、太鼓を叩き、そして声帯を震わせるといった自然がまだ残っている。クラシック音楽に限らず、人間の体で奏でられる音楽が私は好きである。

人工的な音楽は、新奇なアイデアで驚かすことはできても、そのアイデアは、古びてしまうことが多い。日本の歌謡曲では、近年、国民的なヒット曲がないといわれているがそれは不自然な音楽が多く、時空間を越えてアピールする力が少ないからである。無伴奏のア・カペラで歌われる曲の魅力がなくならないのは、それが人間にとっていちばん自然だからである。クラシック音楽の歴史も、新奇さを追求する歴史ではあるが、その基盤には、自然法則が常にある。安定したコード進行、効果的な調性、気持ちのよいテンポ感、美しさを感じさせるメロディラインといった音楽の規則(楽典)は、自然法則に近いものがある。

保育園に通っていた私の子どもが、すぐに覚えた音楽は、ベートーヴェンの運命でありモーツァルトの四〇番であり、ヴィヴァルディの四季だった。大人が聴いても、子どもが聴いても耳に残る音楽には、かなりの共通性がある。音楽の魅力は、普遍的だと思う。それは、人間の体の持つ特性の影響が大きい。自然法則に従った曲が魅力的に響くのはそのためである。自然法則に反発するにしても、受け入れるにしても、その存在を無視した音楽は、魅力を持ち得ないと私は思う。

向上心のある音楽
                                                   
私は向上心のある音楽も好きである。クラシック音楽の多くは、それぞれの作曲家自身が完璧さを目指して作ったものである。演奏する方も完璧な演奏を目指して練習をし、技術を磨く。多くのクラシック音楽は、そういう勤勉さの上に成り立っている。その一方、時々、努力を感じさせない、天衣無縫で天才的な曲や演奏に出会うこともある。人間的な努力と神のような奇跡。そのどちらもが素晴らしい。人間の体を使って作曲したり演奏する限り、物理的な意味で完璧さを実現することは不可能だが、そこに近づこうとする人間味に感動する。瞬間的には、完璧さに達することもある。その喜びは作曲家や演奏者の方が大きいだろうが、聴いている人にも感動を与える。

いずれにしても機械ではなく、人間が作曲し演奏するからこそ味わえる喜びである。もちろん、クラシック音楽以外の音楽でもそういう音楽はある。しかし、演奏技術を磨くための努力をいちばん真剣に行い、こだわっているのはクラシックの音楽家ではないかと思う。安易な方法で「一見完璧」なものを大量に作ることのできる時代だからこそ、たゆみなく本当の完璧さを目指し続けるクラシックの音楽家の向上心は大切である。その努力がクラシック音楽の持つ普遍性につながっている。そういう長年の努力の上に成り立つ演奏からは人生の喜びや哀しみが醸し出される。そのことがクラシック音楽の持つ大きな魅力である。

クラシック音楽は人間の音楽
                                                   
クラシック音楽は向上心があり、普遍性を目指し、人間が演奏する音楽である。それは好き、嫌いの音楽とは次元が違う。人間の知性の歴史そのものである。そして、その音楽は、普遍性を実現しようとする意志の力に支えられている。

青少年の非行に代表されるように、刹那的な生き方、好みだけの生き方をする人間が増えている中で、志の高さを感じさせ、普遍性を目指すような音楽を聴くことには大きな意義がある。しかし、その音楽の素晴らしさは生で自分の耳で聴かないと実感しにくい。クラシック音楽を聴くことは、人間のあり方を頭で理解するのではなく、直の空気を通して、体で感じるということである。そのことによって、人生を感じ、人間を感じ、自然に戻るのである。

人間の長い歴史の中で、心臓の拍動をもとにリズムが生まれ、自然への働きかけの中で音が生まれてきた。それを秩序立てたのが音楽である。音楽を聴くことで喜びや悲しみを感じるのは人間の本能である。その音楽を普遍性のあるものにしようとという人間的な努力の積み重ねには、敬意を払いたい。その中から生まれてきた、いくつかの名曲は、時の試練を越えて生き残っている。そのことにまず感動して欲しい。そして、その素晴らしい感動を生で味わって欲しい。私は、そういう音楽にいつでも触れることのできる生活を送りたい、といつも考えている。そして、そのことは金沢にOEKが誕生したことによって実現された。

OEKへの感謝と期待
                                                   
OEKの演奏会を聴くようになって十八年になる。いつのまにか二百回もの定期演奏会に行ったことになる。その中からたくさんの人生を感じ取ってきた。自分の住む街にオーケストラがあることはとても良いことである。本物の音楽を日常生活の中に運んでくれる。

OEKは、地域に根ざしつつ、世界を視野において活動を広げてきた。まさに向上心のあるオーケストラである。私は、このオーケストラを応援することによってクラシック音楽を生で聴くことの喜びを少しでも多くの人に知ってもらいたいと思っている。Jリーグのサポーターのように、聴衆と演奏者がお互いに働きかけができるような関係になるといいなと思う。演奏者と聴衆が音楽を媒介として共に成長するのが理想である。そういう人が増えてくると、私の住む金沢市は、音楽が生活の中にあふれた街になるだろう。

普遍的な音楽と一期一会的な音楽が交錯する街。そういう街は、ドラマをはらみ、音楽以外のいろいろな新しい文化も生み出す可能性を持つ。そういう街は誰もが住みたいと思うような魅力を持つ。

OEKの演奏会が終わり、現実に戻る。演奏会の前と違った自分になっていると感じることがある。夜の静けさの中で金沢は本当に良い街だと思う。どこかを旅してきた後のように、気分が変わり、生きていく元気が出る。こういう演奏会が良い演奏会である。私にとって音楽は生命力の源泉なのである。

   (C)OEKfan 2006